最上位級に近い力が、桁違いの安さで出てきた
AIで作れないものを、僕は【持ち出し線】と呼んでいます。会社の情報のうち、どこまでなら社外のAIに渡してよいかを分ける、1本の線のことです。
いま X では、DeepSeekの新しいモデル「V4.1 Flash-1017」が話題です。重み(AIの中身にあたる数値)を公開したモデルで、公表された一部のプログラミングや作業代行のテストでは、GPT-5.6 SolやClaude Opus 5を上回る点数とされています。API(自社の仕組みからAIを呼び出す窓口)の料金は、それらより大幅に安いという話です。MITライセンスという比較的自由に使える条件で、100万トークン(一度に読み込める文字の量の単位)の文脈を扱えるという記載もあります。
最上位クラスに近い力が、桁違いの安さで手に入る。この分かりやすい対比に、驚きの声が集まっています。
経営者として真っ先に浮かぶのは「うちのAI代も下げられるのでは?」という問いでしょう。毎月の請求を見て、少し重く感じている方もいるはずです。
ただ、ここには落とし穴があります。「安くて強いなら、全部そちらに切り替えればいい」と、性能の表と料金の表だけで決めようとしてしまうのです。
性能と料金は、AIの会社が次々に塗り替えてくれます。けれども、自分の会社のどの情報を外に出してよいかという線は、どのAIも代わりに引いてくれません。僕は物販・飲食・情報・サービスの4事業を回していますが、業種が違えば、外に出せない情報の中身もまるで違います。線を引けるのは、その商売をしている本人だけです。
今回の話題は、その線をまだ引いていない会社ほど判断を誤りやすい場面です。だからこそ、乗り換えの前に一度立ち止まって考えておく価値があります。
点数表だけで選ぶと、鍵を渡す相手を間違える
よくある勘違いは「一番点数の高いAIか、一番安いAIを選べば正解」というものです。
これは、腕がよくて料金も安い鍵屋さんが近所にできたからといって、家じゅうの合鍵を全部その店に預けるようなものです。腕の良さと安さは、店の側が示してくれます。でも、どの部屋の鍵なら預けてよいかを決めるのは、家の持ち主だけです。金庫の鍵まで、料金表で決める人はいないはずです。
AIも同じです。今回のモデルは中国企業のサービスです。社外秘のデータをそこに渡すかどうかは、性能とは別の問いになります。そして、どの国のどの会社のAIであっても、この問いは同じように立ちます。
ここで、立場の違う2人を並べてみます。
1人は、AIに詳しい人。新しいモデルの点数や料金をすぐに調べ、比べるのが得意です。もう1人は、商売を長く続けてきた人。AIの用語には自信がなくても、どの書類が漏れたら取引先に顔向けできないか、どの数字は社内でも限られた人にしか見せないかを、体で知っています。
【持ち出し線】を引けるのは、後者です。40代・50代でAIに苦手意識がある方ほど、実はこの線を引く材料をいちばん多く持っています。足りないのは、それを言葉にして書き出す作業だけです。
僕の講義では、AIの活用を5つのレベルで考えます。聞く・一緒に作るのがレベル1・2、任せる・連携させる・自律させるのがレベル3〜5です。その現在地を確かめる問いの中に「複数のAIを使い分けているか」という1問があります。安いモデルを定型作業に回すのは、まさにこの使い分けです。ただし、線を引かずに使い分けを始めると、どの仕事がどのAIへ流れているのか、自分でも追えなくなります。
今日やること:乗り換える前に「対照表」を出させる
第1回の講義で、ファイル名の一括変更をAIに頼むときは「変更前後の対照表を作成してから実行してください」と一言足す、という話をしました。表を見て気になる行だけ直してから実行すれば、元の名前を失わずに済みます。AIの乗り換えも、これと同じ形で進められます。
手順は4つです。
1. いま使っているAIの月額とAPI代を、明細を見ながら書き出します。あわせて、そのAIに頼んでいる仕事を思いつく限り並べます。
2. 下の指示文を、いま使っているAIに貼り、一覧を添えます。
3. 出てきた表を見て、気になる行だけ直します。
4. 「候補」になった定型作業を1つだけ選び、社外秘を含まない見本で試します。
そのままコピーして使える指示文です。
あなたは、私の会社のAIの使い方を整理する担当です。下に、いまAIに頼んでいる仕事と、使っているAI、毎月の費用を書きます。乗り換えや設定の変更はまだせず、まず次の列で対照表を作ってください。
・仕事の名前
・いま使っているAI
・月額またはAPI代(分かる範囲で)
・社外秘の情報が入るか(入る/入らない/分からない)
・安いモデルへの置き換え(候補/保留/不可)
・そう判断した理由
社外秘の情報が「入る」「分からない」の仕事は、すべて「保留」か「不可」にしてください。表を出したら何も実行せず、私の確認を待ってください。
【仕事と費用の一覧】
(ここに書き出したものを貼る)
ポイントは「分からない」を保留に倒していることです。迷う仕事を安全側に置いておけば、表を見直すときに、線の近くにある仕事だけを落ち着いて判断できます。
4の試しは、すでに公開している自社サイトの文章の要約のように、外に出ても困らない材料で行ってください。いまのAIと同じ見本を渡し、仕上がりを並べて見比べれば、置き換えてよいかが具体的に見えてきます。
僕なら、点数より先に線を1本引く
安くて強いAIが出てくるたびに、乗り換えるかどうかで迷う。この迷いは、これから何度もやってきます。新しいモデルの話題は、今回で終わりではないからです。
そのたびに点数表と料金表を見比べていては、判断の軸がいつまでも外に置かれたままです。軸を自分の側に置くには、先に【持ち出し線】を引いておくこと。線さえあれば、新しいモデルが出ても「線の外側の定型作業だけ試す」と、迷わず決められます。
講義で使っている自己診断も、ここで少しだけ紹介します。「AIに質問したことがある」「複数のAIを使い分けている」「自動で動いているAIの仕事がある」と順に自分に問い、Yesが続いた最後の段が今の現在地です。そのうえで、次に越える壁を1つだけ決めます。第1回の講義では、レベル3から4の壁を「個人の効率化」から「組織設計」への転換と位置づけました。
安いモデルの使い分けは、この転換の入口にもなります。誰がどの仕事をどのAIに回してよいかを、1枚の表にする。その時点で、AIの使い方は個人の工夫から、会社の決まりに変わるからです。
僕なら、今回のニュースを見て最初にやるのは、新しいモデルへの登録ではありません。まず自分の会社の【持ち出し線】を1文で書きます。「顧客の名前・連絡先と、決算前の数字は、どのAIにも渡さない」くらいの短さで十分です。次に、前の章の指示文で対照表を出させ、「候補」の中から、公開済みの情報だけで済む定型作業を1つ選んで試します。
性能が上がり、料金が下がるほど、AIを選ぶ力より、AIに何を渡さないかを決める力のほうが会社を守ります。AIは、使うものではなく育てるもの。育てる前に、渡してよいものの線を引く。僕はそこから始めます。
あなたの会社の【持ち出し線】は、いま1文で言えますか?


