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「良い」と思ったのに動けなかった自分を責めた夜

僕も長い間苦しめられてきました

あなたにも、こんな経験があるのではないでしょうか。

セミナーを聞いて「これは良い」と感じました。

本を読んで「なるほど」と膝を打ちました。

誰かの成功談を聞いて「自分もやってみよう」と心が動きました。

なのに、数日後には何も変わっていない自分がいます。

そして、その自分を責めてしまいます。

「せっかく良い話を聞いたのに、なぜ行動できないんだ」と自分に問いかけます。

「意志が弱いからだ」「本気じゃなかったからだ」と、自分に厳しい言葉を投げつけます。

夜、布団の中で、あの時の熱量はどこに消えたのかと考え込んでしまいます。

僕は、この構造に長い間苦しめられてきました。

でも、あるとき気づいたのです。

「良いと感じたこと」と「自分がやるべきこと」は、本来まったく別のものだということに。

この二つを混同しているから、動けない自分を責めるという二重苦が生まれます。

良い話を聞いたのに行動しなかった。

だから自分はダメなのだと思い込んでしまいます。

この論理は、一見正しそうに見えて、実は前提が間違っています。

「良い」と感じる能力と、「実行する」能力は、別の回路で動いているのです。

美味しそうな料理の写真を見て「食べたい」と思うことと、実際にその店まで足を運ぶことは違います。

感動的な映画を観て「自分も何かを始めたい」と思うことと、具体的に何を始めるかを決めることは違います。

感情の動きと行動の選択は、連動しているようで、実は独立した別のプロセスなのです。

あなたが「良い」と感じたこと。

それは、あなたの感性が正常に機能している証拠です。

でも、それを「やるべきこと」に自動変換してしまうと、動けなかった自分を責める材料になってしまいます。

ここに、見落とされがちな構造があります。

あなたは本当に、あの「良い話」を自分の人生に取り入れる必要があったのでしょうか。

良いと感じたことと、自分の文脈で意味を持つことは、同じではありません。

この区別がつかないまま自分を責め続けると、やがて「良い」と感じること自体を避けるようになります。

それは、あまりにももったいないことです。

バンダイ時代、僕が「良い研修」で動けなかった理由

1999年にバンダイに新卒入社してから、僕は数えきれないほどの研修を経験しました。

営業スキル、マーケティング理論、リーダーシップ論、コミュニケーション術。

どれも「良い」と感じるものばかりでした。

講師の話は論理的で、事例も豊富で、終わった後には「これを実践しよう」という気持ちになります。

研修ノートには、びっしりとメモが残っていました。

でも、一週間後には何も変わっていない自分がいました。

当時の僕は、それを「意志の弱さ」だと思っていました。

せっかく会社が費用をかけて学びの機会を用意してくれたのに、それを活かせない自分は無能だと感じていました。

同期の中には、学んだことをすぐに実践して成果を出す人もいます。

なぜ自分にはそれができないのか。何度も自分を責めました。

2003年から香港駐在になり、アジア各国で日本キャラクター玩具の営業マーケティングを担当するようになっても、この構造は変わりませんでした。

参加する研修、本社から送られてくる教材、どれも「良い」と感じます。

でも、自分の日常業務に落とし込もうとすると、どこかで止まってしまうのです。

あるとき、気づきました。

研修で語られる成功事例は、その講師の文脈で成立したものだということに。

彼らの業界、彼らの立場、彼らの時代背景、彼らの人間関係。

その固有の条件の中で機能した方法論が、そのまま僕の現場で機能するとは限りません。

僕の現実は、1日10時間の拘束と、上下左右の人間関係のバランス調整と、部会・課会・報告会のための大量の社内資料作成で埋め尽くされていました。

働けば働くほど書類作業が増えるという構造的な矛盾の中で、研修で学んだ「理想の働き方」を実践する余地など、どこにもなかったのです。

「良い」と感じたことと、「自分の現実で機能すること」の間には、深い溝がありました。

その溝の存在に気づかないまま、僕は自分を責め続けていました。

研修内容が悪いわけではありません。

僕の意志が弱いわけでもありません。

ただ、両者の間にある文脈のズレを、誰も教えてくれなかっただけなのです。

書籍でも同じことが起きていました。

ビジネス書を読んで感銘を受け、付箋を貼り、線を引き、「これを実践しよう」と決意します。

でも、翌週には本棚に戻っています。そして、また自分を責めます。この繰り返しでした。

「良いと感じた」と「自分がやるべき」の混同が生む二重苦

「良いと感じた」という感覚の正体は、他人の成功体験への共鳴です。

誰かがうまくいった話を聞いて、自分の中の何かが反応します。

「自分もそうなりたい」「自分にもできるかもしれない」という希望が湧いてきます。

これは人間として自然な反応であり、むしろ健全な感性の表れだと思います。

一方、「自分がやるべきこと」は、自分の文脈における判断です。

自分の現在地、自分のリソース、自分の優先順位、自分の制約条件。それらを総合的に考慮した上で、「今の自分にとって意味のある一歩は何か」を決めます。これは感情ではなく、冷静な分析と選択の領域です。

この二つが混ざると、厄介なことが起きます。

他人の成功体験に共鳴しただけなのに、それを「自分がやるべきこと」だと思い込んでしまいます。

そして、やらなかった自分を責めます。

でも、そもそもそれは「やるべきこと」ではなかったかもしれません。

単に「良いと感じたこと」だっただけかもしれないのです。

この混同の構造に気づいたのは、メンターの大富豪と出会ってからでした。

メンターの大富豪は、僕に多くのことを教えてくれました。

投資の考え方、事業の組み立て方、人生の優先順位の決め方。

どれも「良い」と感じるものばかりでした。でも、メンターの大富豪は決して「これをやれ」とは言いませんでした。

「孔明くん、これは僕の文脈で機能したことだよ。君の文脈で機能するかどうかは、君自身が判断しなさい」

この言葉が、僕の中の混同を解きほぐしてくれました。

良いと感じることは、感じていいのです。

でも、それを自動的に「やるべきこと」に変換しなくていいのです。

良いと感じた上で、自分の文脈に照らし合わせて、「これは今の自分に必要か」を判断します。

そのプロセスを経て初めて、「やるべきこと」が見えてきます。

逆に言えば、このプロセスを経ずに動いた行動は、長続きしません。

他人の文脈で機能したことを、自分の文脈に無理やり当てはめようとするから、どこかで破綻します。

そして、その破綻を「自分の意志が弱かったから」と解釈して、また自分を責めてしまいます。

この悪循環から抜け出すには、「良い」と「やるべき」を分離することが必要です。

良いと感じた自分を肯定します。

その上で、自分の文脈を冷静に見つめます。

両者の間にある距離を測ります。

その距離が近ければ行動に移します。

遠ければ、今は動かないという選択をします。

どちらも、正しい判断です。

責めるべきは自分ではなく、混同の構造そのもの

あなたが責めるべきは、自分ではありません。

責めるべきは、「良い」と「やるべき」を混同させる構造そのものです。

この構造は、あらゆる場所に存在します。

自己啓発書、ビジネスセミナー、成功者のインタビュー、SNSの投稿。どれも「良い話」を提供してくれます。

でも、その話があなたの文脈で機能するかどうかは、誰も保証してくれません。

僕が2004年から20年以上発信を続け、年収1億を超える水準を維持できているのは、この区別を徹底してきたからです。

メンターの大富豪から聞いた話の中で、「良い」と感じたものは山ほどありました。

でも、そのすべてを実行したわけではありません。

自分の文脈に照らし合わせて、「これは今の僕に必要だ」と判断したものだけを選び取ってきました。

10年以上前にNVIDIA株を購入したのも、AIの可能性に対する僕自身の確信があったからです。

海外と日本で複数の法人を経営し、韓国焼肉レストランまで手がけるようになった過程でも、すべての判断の前に「これは自分の文脈で意味があるか」という問いがありました。

良さそうに見える事業機会は無数にあります。

でも、そのすべてに手を出していたら、どれも中途半端に終わっていたでしょう。

あなたの中にも、同じ選択眼があるはずです。

ただ、その選択眼が「良い」と「やるべき」の混同によって曇らされています。

曇りを取り除けば、あなたは自分にとって本当に意味のある一歩を見極められるようになります。

ここで、あなた自身に問いかけてみてください。

最近「良い」と感じたのに動けなかったことは何ですか。

そして、それは本当に「やるべきこと」でしたか。

それとも、単に「良いと感じたこと」でしたか。

この問いに正直に向き合うだけで、自分を責める必要がなくなるかもしれません。

動けなかった自分は、弱いのではありません。

自分の文脈を無意識に守っていただけかもしれません。

その可能性を、一度考えてみてください。

僕は、あなたが自分を責めることをやめて、自分の文脈を見つめ直すことを願っています。

その先に、本当に「やるべきこと」が見えてくるはずです。

疑問があれば、いつでも連絡をください。僕はここにいます。

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